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植田 友宏(うえだ ともひろ)

私は代々ジュエリーを生業としており、クラフト学院で以前山口遼先生から西洋ジュエリー史の授業を拝講し、西洋ジュエリー史については学ばせて頂きました。
現在ジュエリーマーケットが縮小していく中で、海外ブランドとの競争も激しくなり、日本のジュエリーのアイデンティティーを更に強く認識し、世界での立ち位置を自覚しなければ成熟した日本のマーケットでは支持されない、生き残っていけない状況であると感じております。伝統と文化を大事にしつつ、新しい潮流を取り込み、ジュエリーと言う論理的に説明し辛い価値を「不易流行」の精神で不断なく追求し続けていく事が日本の新しいジュエリー文化の継承と創造に繋がると思います。
また私どもは再来年創業130周年を迎えるにあたり、アーカイブの整理も行っており、記念事業の企画も検討する必要があり、原点に立ち還り、日本の装身具史研究の第一人者でおられる露木先生に是非この機会にジュエリー文化史を学ばせて頂ければ幸いです。
露木先生は既にご存知かと思いますが、ウエダジュエラーの江戸時代から創業までの歴史について簡単ではございますが、述べさせて頂きます。

・ウエダジュエラーの創業までの歴史
ウエダジュエラーは1884年、鹿鳴館が落成した翌年、明治17年、銀座の電通通りで開業し、今年で創業128年になります。私で4代目となります。

創業者吉五郎の父、5代前は蔵前の札差から転身した愛宕山の「幸い団子」という江戸で有名な団子屋のせがれだったのですが、火事が三度の飯より好きで江戸火消し「いろは四十八組」の総頭取になり、正にドラマ「仁」の時代の江戸で火消しとして活躍をしていた粋でいなせなチャキチャキの江戸っ子でした。
名前は傳吉と言うのですが、傳吉の一代記は大正初期に講談社から発行された分厚い講談本、上下二冊で「御意見無用」という題で市販されていたそうです。
胸のすくような痛快な男の一代記でけんかあり、女出入りあり、波瀾万丈の男の世界が描かれていたそうです。残念ながらこの本は関東大震災で焼いてしまったそうです。(出来れば探したいと思っております。)
高祖父のせがれが何故ジュエラーになったかと言いますと、明治維新後の文明開化の時代、いろいろな事業に手を出したがうまくいかず、高祖母の祖父、桑原熊吉がたまたま最上級の七宝細工の下地となる平戸細工をつくる名古屋で有名な細工師で、商売がうまくいかない孫婿を心配して、おれが外国人向きの商品をつくるから売ってみたらと勧めたものが大ヒットし、それから外国人向けの平戸細工のペンダントやブローチ等を扱い始めたのがウエダジュエラーの始まりです。

創業当時のウエダジュエラー(当時の店名はK.UYEDA)では、横浜から仕入れた薩摩焼の花瓶や皿類、象牙の彫刻、根付、銀製の食器や置物、目貫を帯留めやブローチに変えたものを外国人向けのお土産として扱っていた様です。
当時扱っておりました目貫や根付、象牙の置物等は現在でも資料として残っており、今見ても非常に精巧で素晴らしいつくりであると感じております。

日本のジュエリー史はヨーロッパに比べると高々150年、技術レベルもデザインレベルもかなり遅れていると思われていますが、ご存知の通り、日本の錺職人の技術のルーツは1876年、明治9年に行われた廃刀令によって刀を没収され職が無くなってしまった刀職人達がその後錺職人、そしてボタン職人になったと言われています。
日本のジュエリーつくりの技術の源泉は世界にも既に認められた素晴らしい刀装剣技術にあると言え、誇りを持って良いと感じております。

上記の様に明治時代に開業したウエダジュエラーではありますが、江戸の文化も色濃く継承しており、私の高祖母の祖父が平戸細工の職人だった事もあり、その当時の平戸細工やその他伝統技法についても学びたいと考えております。

また、日本の美意識、粋の精神がどの様に江戸時代に花開き、明治時代の生活様式、ジュエリー史・意匠と結びついていったのか?等のついても学びたいと考えております。

どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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